aganogawa.com
誕生のきっかけとなった卒業文集「文の丘」


  当時三川中学校教諭岩崎正法先生が合唱組曲「阿賀野川」誕生のきっかけとした、三川中学校卒業文集「文の丘」第1号(1968年3月)を紹介します。

  8.2 水害
  二度とあってはならぬこの惨状

  −文子さん今どこに−
  おそらく、土砂を含んだあの濁流にのまれたのだろう。文子さんはいまどこをさまよっているだろうか。
  あの恐怖の災害から6ヶ月、人の口にものぼらなくなった今日この頃だか、その爪跡はいまだに残っている。寒さに向かって離村していった人々もその一例ではないだろうか。
  別表のように、本校の罹災率は3人に1人、分校にいたっては実に7割弱という高率である。特に全壊流失者は24名で現在も殆どプレハブ住宅などの仮の住宅でこの冬を過ごしているわけだ。
  しかし、他方、災害でうちのめされ、2学期再開のめどもたたなかった本校宛てに、郡内はもちろん、県内、さらに遠く、岡山県などの県外からも激励の手紙、お金、品物などが続々と送り続けられた。これらの人々の善意と友情がどんなにか復興と授業再開へ支えになったことだろう。
  この災害で知った人間の善意と友情を私たちは決して忘れてはならない。と同時に、この災害の原因についてただ単に、天災で仕方なかった。地形や地質の影響もあった程度で片づけず、心構えはどうであったか、備えは十分であったかなど、私たちなりの頭で考えてみようではありませんか。
  本校 分校
流失全壊 21 3 24
半壊 6 0 6
床上 83 23 106
罹災者率 31.5% 68.4% 35.3%


「思い出したくない」  3ノ1 斎藤美智子
  私は思い出したくない。だからこの作文を書けといった時、とてもいやだった。なぜ、こんなことを書かなければいけないのか?私はわかりません。・・・・
  先生がにくくなるみたいです。あれは何時ごろだったかわすれましたが、私は台所にいた時でした。一段下がっている風呂場が水でいっぱいになっていました。でも、その時刻はかなりおそいと思います。ねむれなくて、おきて台所へ行きました。母はいろいろかたづけていました。まさか家が流されるとは思っていませんでした。ですから半分、不安よりおもしろいといった気持があったみたいです。それは、今までこんなめにあったことがないことであんな気持になるんだと思います。私もいままではそうでした。それからいつのまにか電気が消えていきました。それでも、懐中電灯を照らし、二階にいろんなものをあげました。電気器具類、重いものを下においた他は全部あげました。どの位たったでしょうか。雨の中に気味の悪い半鐘の音が耳を通り抜けました。それを聞いたとたん、私は立つともすわるともなく震えてきました。母、弟とともに2階にあがりました。でも2階にあがったとたん死ということが浮かびました。前の家の玄関の戸の所へ、海の高波が押し寄せるように、泥水がどっとぶつかってきました。そうなると人と水の戦いです。なかにあかりをもった人が一生懸命戸をささえていました。でもそのころだったと思います。父が最後の最後になって叫びながらむかえにきました。その時は川原の方の人は全部、学校に避難したあとだそうです。茶の間までおりた時、ずずっと胸までうまりました。その時の家の中は、ゴーゴーと茶色の水が座敷の方から、風呂場の方へ流れて行きました。胸までつかった私は、足の自由がききませんでした。やっと玄関までくると父の腕につかまりました。それから外へ出ました。そんなときまで父は隣の家ごとに叫んで歩きました。うしろから明夫君達がついてきたように覚えています。前からくる水、いいえ、川をくいっと押し進んできました。ショートパンツしかはいていない。それにはだし。しだいにしびれてきました。曲がりかどなどは、そのまま足がとらてしまいそうになりました。気をとりなおして、ぐっと父の手を強くにぎりしめて進む。水の少ない家までつれていってくれたあと、又、外にとび出して行きました。今とび出していったら死んでしまう。堤防は切れている。こんな時、消防団長も何もないと思った。それっきり父は朝まで帰ってきませんでした。あっさり朝までと書きましたが、その長かったこと・・・昼近くなってからだろうか。やっと道路が見えてきました。避難した家は泥がひざのあたり、カエルがいっぱいいた。高い家でした。そんな家でもそうだったのですから、他はどうだったろうか。それから毎日毎日にぎり飯です。粘った米飯もありました。でもそれを食べなければ他に食べるものがない。ふだんそっぽをむくにぎりめし、あんな時はとてもおいしく、たいせつだ。今でも川原などで自分の洋服があると、「かなしいわ」と思いました。雨の降るたびに震えるこの頃の私たちです。


「思い出したくない」掲載にあたって
  合唱組曲「阿賀野川」誕生のきっかけとなった三川中学校の卒業文集「文の丘」に、8.28水害について記した「思い出したくない」を書かれた斎藤美智子さん(現在大屋美智子さん)は、三川村細越の出身の方で、現在新潟市でご主人の仕事を手伝いながら三川村の応援団として元気に活躍しておられます。
  この文章についてお話すると懐かしそうに今でも鮮明に覚えておられるとおっしゃいました。この文章で8.28水害の生々しい様子が読みとることができ、組曲「阿賀野川」の3曲目「羽越大災害」をより一層リアルに感じることができると思います。
  Webページへの掲載について、心よく承諾していただきありがとうございました。


戻る