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誕生の秘話岩崎先生編


『阿賀の川』の流れとともに

岩崎 正法     
(当時三川中音楽教諭)

  1 はじめに
  「『阿賀野川』が悲しんでいるだろうなぁ〜。これが人生か・・・」私が転勤で三川中を離れることを和夫先生に告げた際、いただいたお返事である。
  こよなく三川の地、それも阿賀野川に愛着を示された和夫先生から人生の様々な教示をいただいてから早、十年。時が経つのは早いものである。しかし、この組曲が人々に与えた功績は計り知れないものがある。その過程を、エピソード交えながらたどってみたい。

  2 組曲誕生の原点
  合唱組曲「阿賀野川」制作のきかっけは、私が三川中に赴任した当時、大切に保存されていた生徒会誌1号に書かれてあった「思い出したくない・・」という文章である。昭和42年、この年は、前年度の三川村立谷花中学校、三川村立下条中学校、三川村立三川中学校が統合して新三川中学校としてスタートが切られた年でもあった。その統合1年目の夏、村中を轟かす大惨事が三川を襲った。「羽越大災害」である。この災害は東蒲原郡の阿賀野川流域、および、新潟北部の関川村など広範囲で起こったため、「羽越大災害」と呼ばれる。
  この年に書かれた生徒会誌には、「文子さんは今、どうしているだろうか・・」と夏に災害に飲み込まれ、行方がわからなくなった級友の事を案じる一文が載っている。合唱組曲誕生の原点がそこにある。
  私が、三川中学校の生徒と音楽活動をしていて、まっさきに思ったのは、純粋な心を持ち音楽に取り組む真摯な姿、それは、都市部の子供たちには見られないひたむきな練習への姿であった。この、音楽的にも隠れた素質を持つ素晴らしい子供たちが、音楽を通してもっと大きく成長していける道はないのか・・・?そして三川村を横断して流れていく雄大な阿賀野川の姿、災害を乗り越え、人々のたくましく生きる姿をなんとか音楽で表現できないものか・・、第一期生の「文子さんは今〜」という気持を織り込めないものか。と、思案したあげく考えついたのが合唱組曲の制作であった。職員会議でもいろいろな意見が出されたが、合唱組曲をとおして災害の恐ろしさ、自然の雄大さ、平和な今をたたえる賛歌を作成し、生徒達に貴重な体験を積ませてやりたいという点で学校の意見は一致した。
  曲が誕生する時は多大なエネルギーが必要とされる。制作を企画する人、それを推し進める人、賛同して協力をしていただける人々。組曲「阿賀野川」は、こうしてたくさんの方々のエネルギーをいただき、八ヶ月の歳月を費やし誕生することになる。

  3 岩河三郎先生への作曲依頼
  曲作りの上で、どなたに作曲や作詞をお願いするかということは、合唱組曲の成功の可否にかかわる重大な問題である。しかも男性の音域がある程度限定されている中学生が歌うということを考えると、中学生向けの合唱曲を多く世の中に出され、NHK全国音楽コンクールの全国大会の審査員なども務められていて、しかも、新潟県の県民賛歌も手がけられている、岩河三郎先生にお願いすることが妥当であろうと判断した。
  岩河先生にお願いするにあたっては別のエピソードもある。ひとつは、私が山口県出身で自宅が防府市にあることだ。その山口県の山口大学教育学部の教授として、かって岩河先生が教鞭をとっておられていたということに親しみを抱いたのも隠せないことだった。先生の曲は心に染み入るメロディーで、地元山口でも愛好する人々が多く、地域の方々の岩河作品に対する評価は極めて高かった。
  もうひとつには、今も私の師である合唱指揮者の小林光雄先生が、杉並区立宮前中学の教諭(その後、国立音楽大学音楽教育学部教授)に在任しておられた当時、毎年、岩河先生の新作品を発表されていた。その発表作品の中から、『木琴』『親知らず子知らず』『たじま牛』などの名曲が生まれ、ひろく中学生に愛好されていた。このようなことが岩河先生に作曲をお願いしようという決定的な理由となった。
  師、小林光雄先生のご紹介を経て、岩河先生にお願いをしたところ、気持よく承諾をいただき組曲の作曲は進みだすこととなった。しかし、岩河先生の音楽に対する情熱は、大人の練習でも子供の練習でも、みな同じ厳しさを持って臨まれる。練習への情熱が、後に子どもたちにとてつもない刺激となっていくことは、この時は知る由もなかった。

  4 作詞者 山本和夫先生との出会い
  作曲者の岩河先生からは「作詞者は、できれば私の尊敬する人がいいのだが・・・」という依頼があった。もともと何人かの候補者があったのだが、その中で、先生は「地元ということで新潟県柏崎市出身の中村千栄子さん(故人)もいいが、山本和夫先生はいかがですか。」とお話しされた。岩河先生と山本和夫先生のコンビで今まで素晴らしい曲が世に生み出されていることを知っていたので、喜んでそのお話をお受けした。岩河先生が「私の方から話をしておくので、改めて電話をしていただけますか。」ということだった。山本和夫先生に初めて電話した日のことは、今でもはっきりと記憶に残っている。電話に出られた和夫先生は、「いや、岩河君から話は聞いた。一度、阿賀野川に行ってみんといかんなぁ。切符をお願いしていいですか。」気さくな先生からの第一声はこのような会話であった。

  5 先生方と阿賀野川の出会い
  年が明け平成三年の一月十日、先生方がそろって三川村に来村された。雪の舞う寒い日であった。新潟駅までお迎えに行き、車で三川村までのおよそ五十kmを来られた。途中、水原町の瓢湖(白鳥の飛来で有名な湖)で白鳥をご覧になり、お二人ともじっと感慨深げに眺めておられた。三川村に到着すると、当時の山口村長、佐藤教育長、大竹校長らの出迎えを受けられ、早速、子供たちの歌声を聞いてもらうこととなる。その時歌った曲は、先生方の作られた「親知らず子知らず」であった。BSNラジオ(新潟放送)も取材に来て、この様子を翌日放送した。岩河先生は、「生徒の素直な感情、素晴らしい感性には今の時代にないものを感じる。」と関係者に話された。和夫先生は、「みなさんが一生懸命やりたいという気持ちが伝わってきてうれしかった。みんな素直な子ばかりで感激したよ。」と話された。そして、生徒への話の中で最後に心に響く一文があった「私が一生懸命詩を作るのはみなさんに美しく生きて欲しいという気持ちからです。みなさんもどうぞ美しく生きてください!初演、楽しみにしています。」

  6 被災現場を見て廻る
  来村された翌日、「羽越水害」で被害が出たところを中心にお二人の先生方が村を廻られた。鎮魂の碑のある石間地区では、お婆さんが畳の上に乗って「南無阿弥陀仏」を唱えながら流されて行ったこと、家の1階部分に水が押し寄せ、停電となり生きた心地がしなかったことなどを、当時被災された方々から話を聞いて廻られた。また、水の勢いで曲がった細越地区の火の見やぐら(現在はなくなっている)や中ノ沢地区、綱木地区など、村内をくまなく廻られた。そして石間の阿賀野川ライン下りの乗船場から、冬季期間中の運行ダイヤではあるが取上まで乗船され、阿賀野川の様子をつぶさに見て東京へと帰って行かれた。

  7 村役場議場での合唱
  こうやって企画を立てたものの、今まで取り組んでみたこともないスケールの大きい事業が果たして成功するものなのかどうか、当時は大いに行政も悩んだようである。私の企画はいったん大竹敏夫校長先生(現三川村教育長)が教育委員会で委員のみなさんと相談をされ、いろいろ議論の末に取り組んでみようという事になった。しかし、教育現場で了承されたこの企画も議会では雲をつかむような話であったに違いない。そこで、一月二十二日臨時議会終了後、二年生四十九名による合唱発表会を催すこととなった。議場では、お二人の先生方が作られた『親知らず子知らず』をはじめ、飯沼信義先生が作られた『名づけられた葉』を小池慎君の指揮で歌うことになった。当日は雪まじりの日で、長靴や冬靴を履いた中学生がぞろぞろと議場へ向かう姿は異様であったにちがいない。ピアノがなかったので、男子生徒が電子ピアノを抱えて行って設置するという形で演奏を行った。みぞれまじりの中、楽器を運ぶのは大変であったが、演奏終了後は大きな拍手が議場に鳴り響いた。こうして議員の方々の賛同も得て、村として事業が始まったのである。

  8 小林光雄先生による歌唱力アップ作戦
  作曲、作詩の先生たちがそれぞれの立場で奮闘されておられる間も、じっと曲が出来上がるのを待っていたわけではない。この期間を利用して、少しでも岩河先生の期待に添えるよう、和夫先生の詩が聞きに来てくださるお客さんに伝わるように、詩の味わい方を国語科の先生方を中心に学習した。そして音楽科では「合唱指導講座」を開き、日頃、人前であまり歌うことのない生徒たちへの刺激も兼ね、歌唱力のアップに全力を尽くすことにした。この講座は、小林光雄先生(当時、国立音楽大学音楽教育科教授)に2月18日来校していただくことで実現した。先生は、「子どもたちがまっすぐに何かを訴えようとする歌唱に熱いものを感じた。」と歌唱力アップに力を貸してくださることを約束してくださった。せっかく全国的にご活躍の先生が来られるのだからと近隣の先生方にも呼びかけたところ、郡内だけでなく新潟市や新津市から56名もの音楽科の先生が参加された。音楽科の先生は、当時一校に一、二人であったので40校以上の先生方がこの講座に参加されたことになる。講習会形式で行ったこの講座は来校された先生方に大変好評で、多くの先生方が初演の演奏を楽しみに学校を後にされた。雪が1メートル以上積もる悪路の中、50km以上も離れた新潟市内からも先生方が来られたということでNHKからも取材があり、ついにメディアもこの合唱組曲の行方を追うこととなった。

  9 作詩にあたって和夫先生を訪ねる
  1月に村を訪ねられた和夫先生は、東京と小浜を行き来しながらいよいよ詩に取り組まれることになった。何回か電話があり、「君、僕は今詩を書いとるのだが、あそこの地区の様子はどんなだったかな。聞かせてくれますか。」などと、実際に見られた事を丁寧に思い出すように確認の電話を何回もいただいた。そのようなやり取りの中、3月に入り、東京の先生のお宅に詩の様子をお伺いする機会を得た。学校が休みになる土曜の午後から伺い、当初は、すぐに引き上げる予定であった。ところが、帰る頃になって「君、やっぱり泊まっていかないか」と先生がおっしゃり最初は丁寧にお断りしたのであるが、「遠慮するな」という先生の言葉に、ついつい甘えさせていただくことになってしまった。先生は廊下にあったビールケースからビールを取り出しし、「ま、やろう。」と僕はお酒の相手をすることになったのである。冷蔵庫に入れず、廊下に出してあるビールだったので、冬ではあったがたいして冷えてなく、泡が多かった思い出がある。先生は「これがうまいのだ。」と、飲めない私にどんどんビールを勧められた。途中奥様もお話に加わられ、その年のNHK大河ドラマ「おんな太閤記」の本を先生の奥様が執筆されたことで話がはずんだ。しかし、酔いが回った私はいつしか潰れていて、気がつくと布団の上に眠っていた。おそらく、奥様や先生の手を煩わせたのだろうと思うと、今でも感謝と同時に恥ずかしい気持ちでいっぱいである。翌日、詩の一部を見せてくださり、「もう少しでできるから、できたら君のところに送るよ。」そう言って私を新潟に送り出してくださった。

  10 初めてのレッスン・初演日の決定
  3月に入ってすぐ、第5曲のうち1曲目の詩ができあがり、「この間、うちで見せた『阿賀の里』ができたので岩河君に詩を送った。」と連絡が入った。そして、岩河先生から初めての曲『阿賀の里』が3月下旬に送られてきた。先生が4月の下旬に来校されることも決まり、いよいよ練習も本格的に開始した。
  最初に全体で練習の確認をした。練習中の反応は、できる限り早く、そしてがんばろうと努力すること、8月の発表会に来られた人が、感動する演奏になるようにがんばっていこうという事など・・。事細かに挙げてレッスンを受ける子どもたちの不安を取り除こうと努めた。もうひとつ、レッスンの前に解決しておかなければならない重要な問題があった。初演する会場をどこにするかということである。私は、音楽を専門的に勉強してきた立場だったので、即座に、音響効果の優れている新潟市音楽文化会館を推薦した。しかし、大竹先生も教育長さんも私の話を聞くうちに、「いや、岩河先生先生はそんな事は思われないな。やはり地元の三川中体育館で初演されることに理解を示していただけるに違いない。」と押し込まれてしまった。音楽を演奏する時、特に「初演」が持つ重み、まして、岩河先生の曲を世に送り出す「重み」を説明したが、舌足らずの私は、理解を示してもらうことができなかった。お二人の先生に対して、申し訳ないなという気持ちで苦しい時間を過ごしたが、主催する村がそのような意思であるなら、それは、率直に先生に伝えるしかない。そう判断した私は思いきって和夫先生、岩河先生にその意思を伝えた。すると和夫先生は、
  「そりゃ、君、困ったな岩河君が納得しないだろう・・」と答えられた。その言葉どおり、岩河先生に連絡をしたところ、「何を考えているのだ。音響効果のまったくない、しかも、体育館でやるとはどういうことだ。」とお怒りをあらわにされた。岩河先生は、その後、小林先生と相談をされ、小林先生が教育長さんに電話をかけられ、岩河先生の気持ちや音楽の「初演」がどのようなものであるかを直接語られたようである。
  このような紆余曲折の経緯を経て、教育長さんが「先生方の助言により『阿賀野川』の初演を新潟市音楽文化会館で実施しよう!」と決まったのは、いうまでもない。早速、新潟市音楽文化会館に貸し館の手続きをしたところ、なんと「羽越災害」の祥月命日である8月29日しか空いていなかった。これも何かの縁だなと感じざるを得なかった。
  さて、岩河先生が初めて三川中学校に足を運ばれ、初めてのレッスンがスタートしたのは、4月26日・27日であった。生徒とともに3月末から一生懸命練習を積んできていたのだが、最初のレッスンから岩河先生の熱心さには、圧倒された。「もっとよく聞いて。」「おい、間違えるな!何をやっているのだ!」それは、それはすさまじい練習への取り組みであった。中学校の生徒だからこれぐらいは・・・などという妥協は決して許されない練習であった。大人の合唱団でもきつかっただろうなと思える練習を生徒たちはだれひとり、座り込んだり、退室したりすることもなく2時間の練習に耐えぬいた。中には緊張のあまり、固くなってしまった生徒がいたが、周りの友達が心理的な部分を助け合うなどして乗り越えていた。まさに「涙」「涙」の連続であったと言えよう。

  11 かえるの大合唱
  こうして、月一度、和夫先生から詩が、岩河先生からは曲が送られてくることを繰り返した。和夫先生は、岩河先生に詩を送られる前に、「君、これでいいと思うかね。」と私宛の私信で感想を聞いてこられた。手紙には、ほとんど3〜4行程度で、用件に対して「災害のその資料、送ってほしいな・・・」などと短い文の中にも心が温まる書き方をされていた。そのようなやり取りをしながら、初演に向けて着々と音楽の方も、事務方の方もとどこおりなく進行していった。このような中、エピソードがある。5月から6月にかけて、三川村では田植えも終わり、田んぼは、蛙の大合唱がはじまる。先生のお泊りになる三川温泉も例外ではなく、窓をあけると「グワッ・グワッ・グワッ・グワッ」とたくさんの蛙達の鳴き声が朝まで続いていく。昼間、生徒の指導でお疲れになり、お休みになるまでさぞかしうるさいだろうと思い、「先生お泊りの場所をかえましょうか?」と相談したところ、「この蛙の鳴き声が実によくて・・・」とうるさがられているどころか、かえって懐かしんでおられた。そして、「今は、このような所がだんだんとなくなってねぇ・・・」と寂しそうに話されていた思い出がある。「蛙も大合唱しているのだから、あなたも大いに生徒たちが大合唱できるようにがんばって欲しい。」と心配していた私がかえって励まされてしまった。

  12 公開授業と公開レッスン
  8月29日の初演を前に、8月7日、新潟市宮浦中学校において第18回全国集団学習研究大会で「阿賀野川」を題材に、3学年2学級合同の公開授業を全国の先生方に向けて行うことになっていた。当日、生徒たちは村のバスで新潟市まで向かい、そこで、平素の授業を展開することとなった。特別なことは何もしていない、ごく普通の音楽授業を公開するわけだか、ひとりひとりが輝く授業となるように展開した。授業への課題を個人のレベルにおいて設定し、その目標が達成できるようグループの全員が助言をし、その目標が達成できるよう考えられた授業である。特に変わった授業でもないと私自身は思っていたが、授業終了後、全国から集まられた先生方の目には光るものがあった。素朴な中学生の輝きと素直な音楽表現を授業で達成したいという真摯な姿に心を打たれたためであった。先生方は、「子どもたちの取り組んでいる姿を見ているとなぜか涙が出るのです」と何人もの先生が口にされた。岩河先生から数ヶ月、音楽の様々な要素を教え込まれてた生徒たちは、知らず知らずのうちに、人々を感動させることができる合唱や取り組みができる生徒に成長していたのである。私もうれしく、子どもたちの可能性の大きさに感動を覚えたことは言うまでもない。このあと、会場を新潟市公会堂(石油王、新津氏が建てた建物でその後「りゅ〜っとぴあ新潟市民芸術文化会館」の完成に伴い取り壊された。)に移し、中間発表として「阿賀野川」全曲をまだまだ、完成の域には、達していなかったが披露した。組曲の中身が初めて公の前に姿を出した瞬間であった。
  続いて8月28日には合唱組曲「阿賀野川」の公開レッスンが、待っていた。このレッスンには、東京をはじめ、大阪、愛知などの都市部をはじめ、遠くは北海道からも参加者が来られるという充実した会であった。この公開レッスンを三川会館で実施したのであるが、ひとつだけ重大な問題があった。それはみかわ会館のホールにあるピアノがアップライトピアノだけでグランドピアノがないとういうことだったレッスンは、岩河先生、山本先生との間で、グランドピアノで行うことが約束されていた。しかし、グランドピアノを中学校の音楽室からみかわ会館まで運送し、再び学校まで運搬するとなると当時20万円予算が必要であった。当然そのような資金はなかった。組曲製作の予算外だったからである。そこで、中学校のPTAから協力していただくことにした。幸いPTA会員の方の中には重機をお持ちの方トラックをお持ちの方クレーンをお持ちの方などがおられた。そこで、杉崎克彦会長(当時)のもと、一致協力して「ピアノ運搬作業」が行われることになった。どなたも、仕事を持っておられるということで8月17日の早朝に運び出し、初演後の8月30日の夕刻に学校へ再び運送という段取りで行われた。ピアノの足をはずし、本体を梱包し、2階の音楽室から運び出すことになったのであるが、もしもピアノが回転できないなど、支障になる障害が発生した時のために、様々な運び出しルートが練られていたようである。幸い、ピアノ本体には何の支障も無く、無事にピアノを運び出すことができた。みかわ会館に到着し、無事、ピアノを組み立て終えた時、五十嵐義雄さんが「このピアノ鳴るかなぁ〜」とピアノの鍵盤をたたいた。ぽ、ぽーんと音が出た時、この作業に加わった全ての方から拍手と笑顔が沸き起こった。初演の裏方としてご尽力くださった当時の会員の方には今でも、感謝申し上げたい気持ちでいっぱいである。
  公開レッスンは、私の発生指導、小林光雄先生の「楽しい授業のかくし味」、そして、岩河先生の主に第2曲「ふるさとの将軍杉」を中心にした公開レッスンであった。和夫先生もこのレッスンに参加され、詩の作成の経緯についてお話された。お集まりいただいたたくさんの方々も十分満足して帰路につかれたようである。レッスン後、岩河先生、和雄先生、小林先生には会場を八徳山荘に移動していただき、全国から三川に来られたたくさんの方々と懇親し、楽しい夜のひとときを過ごしていただいた。そこでは、「阿賀野川」の詩や曲が誕生するまでの秘話などが、夜のとばりの中で、作詩者の和夫先生から作曲者の岩河先生から集まった方々にお話しされていたようである。

  13 初演の日
  前日、八徳山荘に宿泊された岩河先生、和夫先生は、この日、子どもたちと石間地区にある「羽越災害」の鎮魂碑の前で初演の成功をお祈りした後、新潟市音楽文化会館へ向かうことをとになっていた。私は朝、なかなか和夫先生が起きて来られないのが気になっていたが、先生と前日確認してあったことなので、大丈夫と安心しきっていた。しかし、出発の時刻が刻一刻と迫って来るのに食事会場へ先生が来られないので、失礼と思いつつお部屋へ伺うと「岩崎君、飲みすぎたな。こりゃいかん。」と慌ててお支度をされている姿があった。私が「先生、待っておりますのでどうぞ安心してお支度ください。」と申し上げたら「いやぁ〜阿賀野川も僕が酒で禊をしたので許してくれるだろう。いやぁ、愉快だ。」と相変わらずの豪快さで返された。
  仕方ないので、遅れて鎮魂の碑に行く旨連絡をとり、生徒には一足早く会場へ行ってもらうことにした。朝から冷や汗が出たが和夫先生はいたってご機嫌なので、これもいたしかたない。生徒たちには申し訳なかったが、これも天命と思うことにして心新たに両先生とともに新潟へ向かった。
  会場に到着すると、すでに役場の職員、音楽文化会館の職員でリハーサルへ向けて山台のセットなど、場内は活気づいていた。そうこうしている内に、いよいよゲネラルプログラム(以下ゲネプロ)の時間が迫り、子どもたちがホールの舞台に集まりはじめてきた。ピアニストの畑野かんなさんもスタンバイされており、いよいよここまで来たなと実感を噛みしめた記憶がある。ゲネプロの時から子どもたちは生き生きとしており、半年間の長くて辛い練習の積み重ねを乗り越え、この舞台で聴衆を感動の渦に巻き込もうとしていた。
  本番は「感動」の嵐の連続であった。その中で演奏後、楽屋裏で和夫先生が生徒に向けて「われわれは、不幸のどん底に落ち込むことがよくあるね。『羽越大災害』はまさにこの世の生き地獄です。しかし、そんな時、人間落ち込んでばかりではいなかった。立ち上がったね。つまり、どんなに落ち込んでしまっても悩んで苦しんでも、私たちは光に向かって進むことを忘れなかったのだな。どうか生徒のみなさん、人生の苦しみに出会ったときは大いに悩んでください。大いに悲しんでください。しかし、光に向かって歩き出すことも忘れないで下さい。今日はおめでとう!心からの拍手を送ります。」とおっしゃっていただいた。岩河先生からは「一人の落伍者も出すことなく、全員がこの組曲に取りくみ、全員で今日のゴールを切ることができた。ほんとにご苦労さん。」とねぎらいの言葉をいただいた。
  演奏を聞いた保護者の方からは「あの感動はいつまでも私たちの心から消えません。『やればできる』という教訓を身をもって体験し、一生の思い出となることでしょう。」と同様の感想が多数寄せられた。身を乗り出して合唱を聞く人々、涙が自然と頬を流れる人々、感じ方の違いこそあれ、合唱の持つ美しさにひかれたひと時であったに違いない。

  14 合唱組曲『阿賀野川』のもたらしたもの・・
  合唱組曲『阿賀野川』は、初演後、歴代の三川中学校生徒や村内の小学生、村内を中心とする大人の合唱団によって歌い継がれている。全国的にも、高校生、大人の合唱団が取り上げており、小さな村から発信したこの組曲は確実に広がりを見せている。和夫先生が「人間の誰もが体験する悲しみ、しかし、くじけることなく光に向かって歩みだして欲しい。」というお気持ちを汲むように・・・。楽譜の出版も第一刷で終わりかなと思っていたらカワイ出版は現在第四刷まで重版しているとのことである。お二人の素晴らしい先生が作られた曲は、息の長い曲として各地で歌い継がれているようだ。
  村人が合唱組曲『阿賀野川』発信の村としての誇りと自信を持ち、たくましく歩み進んでいく姿を見るとき、私は苦労した甲斐があったなと感じずにはいられない。初演の子どもたちはもう25歳。これからの社会で、村の中で、音楽文化の発信者として大活躍してくれたらこんなうれしいことはないと思っている。初演の子どもたちの中には、もう、親として自分の子どもとともに新たな人生を歩んでいる者もいる。その子どもたちが、今度は『阿賀野川』を親子で歌い継いでいってくれたらと、ついつい夢を見てしまうこの頃である。村に大きな爪跡を残した大水害は四半世紀を経た今、村人に合唱組曲『阿賀野川』という大きな音楽文化をもたらしてくれたのだ。

  15 幻の第4曲
  合唱組曲には盛り込まれなかったが、先生が当初第4曲の詩として推敲された作品がある。組曲の構成上、私宛の私信で「いかがですか?」と送られてきたものである。後に『悲歌』が正式に第4曲となったが、その際「それ、あなたにあげるよ。」と頂いたものである。『小さな石のメルヘン』という題であった。和夫先生の7回忌を迎え、先生を偲ぶ意味で最後に紹介したい。

  小さな石のメルヘン

  暗闇におそった土石流
  地鳴りものすごく  山々は火をふき
  むざん!
  村々は廃墟となったが
  −だが、不思議  神わざか
  火の見はしごが  ぽつんと  十字路に残った
  若者は
  火の見ばしごにかけのぼって  けたたましく  半鐘を叩いた
  −心に
  太陽を取り戻すのだ

  村おこしが始まった
  村びとのいのちの中に
  里に伝わる民話(メルヘン)がよみがえる
  昔  昔  あったてんが
  蒲原の里にのう
  貧しい  貧しいトトとカカがおったてん
  −ある日のことじゃった
  カカがどなりながら家をどび出しおったが
  ちょっと  めえたれば
  トトが恋しうて  どもならんてん
  紙ぶくろに  小さい石を二つ入れ
  他人(ひと)に  ことづけてんのう
  受けとったトトは
  「おお  小さな石が二つ  小石  小石  恋し  恋し  か」
  と  にっこり
  「待てよ  返事  作ろうか」
  トトは  ぽきりと  木の枝を折る
  「これ  カカに  渡して下され」
  −カカは  これを受け取る
  「木の枝の折れ  ふ  ふ  ふ  木折れ  木よれ  か」
  と  にこにこ
  二人の中に太陽が戻った
  楽天(らくちん)の暮らしが戻った
  (イチゴ  ブランと  さあがった)
          
  村びとよ
  小さな石を持て  太陽をとり戻すのだ
  トトとカカの小石
  隣人どうしの小石
  小さな石が並んで  積み重なって  恋し恋しの愛情
  −その愛情を基に
  太陽は
  人の心の中に輝きはじける
  阿賀の里の
  草の根運動とは
  小さな石を
  無数に  持ち寄ることに他ならぬ

  阿賀野川を見おろす鎮守の森に
  −大太鼓がひびいている
  村の祭りは
  近づいた


※「イチゴ  ブランと  さあがった」は「おとぎ話」のおしまいの文句です。

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